紫陽花が想起させるもの

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今年もまた紫陽花の季節がやってくる。鎌倉に紫陽花が有名なお寺があるが、大学時代のゼミの教授がここに眠られている。紫陽花を見ると、そのO先生と大学時代を思い出す。
その当時はあまり一般的ではなかった計量経済学。パソコンが普及することで、今ではかなり手軽に分析できるようになった。経済学部にも関わらず社会が大の苦手、数学科目は好きだったため、入ゼミ試験をクリアすべく、その当時はマイナーだった計量経済学のゼミを選んだ。地下の計算センターに大型コンピューターがあり、パンチングした黄色いシートで確か計算をしていた。。今では同じことが個人のパソコンで瞬時にできるんだろう。。。この間のITCの進歩は目覚しかった。

O先生は、小学校から一貫して、この学校。大学も大学院もこの大学を出て、最終的に退官するまで、この大学に勤められた。こちらの大学でも今はそのようなキャリアの積み方は許されていない。大学の世界も随分と様変わりをした感じがある。研究が研究として成立するのではなく、実社会とのインタラクションが重視されるようになった。

わたしの中の大学教授のイメージは、このO先生のイメージが強く、食べることに苦労のない人だけが享受できる恵まれた世界、生活という枠にとらわれず、好きな学問を好きなだけ追求できる雲の上の世界、というイメージが強かった。

大学の世界が隔離された特別な領域ではなくなった。今では多分O先生のような先生はいないのではないかと思われる。特別な世界ではなくなって、実社会との資金の流れができ、社会からも評価される対象になった。こうなると、自分の目線だけで、研究を続けていくことも難しいのではないかと思われる。O先生のような先生たちに許されていた、優雅な特権は今は存在していないんだろう。

ただ、あの当時は思い至らなかったけれど、それを生活の糧とするのでなければ、自由に自分の読みたいものを読んで、自由に思考を巡らすという特権を、O先生のように自分も享受できる。日がな一日。。。

とすれば、誰にでも望めば与えられる恵まれた特権を享受するために、ご飯代の方を頑張るインセンティブが生じる。霞を食べては生きていけないし、ご飯代はご飯代としてとても大事となる。縛られずに自由になる手段だから。
ずっと目的をそこに求めてきてしまったけれど、手段としての存在理由がちゃんとある。目的設定ができないとやる気がゼロどころかマイナスまで落ちていく自分。。。やる気を失わずに頑張る理由がまたひとつ増えた。

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