変身願望…⁈

四谷にある英会話学校には、仕事帰りに、相当長い間通っていた。現時点から抜け出すために何かをしたい、何かに役立つはず、と思っていたことに加えて、ただ好きだったからというのも大きい。
好きだというのは、英語が好きだというより、大して上手くもないけれど、英語を話すということが好きだったから。
大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞したとき、メディアに相当登場されていた。そのとき「あいまいな日本の私」というのを初めて聞いた。それ以前もそれ以降も大江さんの本を読むことはないのだけれど、この言葉がとても印象に残っている(本を読んでないので、まったくもって自分の勝手な解釈かもしれないけど、、、自分の気付きにつながったので…)。
あ〜そうなんだ日本というのは、日本語を話しているわれわれというのはとてもあいまいなんだ…と思った。それまでそんなことは考えたこともなかった。でも、そう言われてみればそうなんだ。日本語の表現は極めて曖昧。最後まで聞かないと肯定なのか否定なのか、、場合によっては最後まで聞いても分からないときだってある。
相手の真意を汲み取り、汲み取り、相手の気持ちを察して、察して。。。ひとと関わるのがたまにとても億劫になるのは、このあいまいさが一因なのね、と合点がいった。
まあ、言ってみるとこれも文化で、ここから生まれる美徳やら、豊かな情感やらも多いとは思う。ただ、結構、これだけやってるというのもしんどい。。
ひとのパーソナリティは、話してる言語によって影響されると思う。日本語で話してる自分は、やはりいろいろオブラートに包み、たまに自分でも自分の真意や気持ちがどの辺にあるのか分からなくなってしまったりする…。厄介だ。。
その点、英語は主張する言語。例の学校でproとconのグループに分かれて、議論をしたとき、特にそう感じた。極端なことを言えば、それに賛成か反対かはあまり関係がない。立場はどちらでもいい。ただ自分の取った立場について、いかに説得的に、理論立てて、議論できるかについて要求される。あいまいさとは無縁。。。自分はこう考える。なぜならば、、、って感じ。
言語によって求められる人物像は異なる。そして、求められるものに忠実でありたいと思う自分のような性格だと影響も大きい。英語が好きというより、英語を話しているときの自分が心地よかったんだな、きっと。
日本語で働く自分と英会話教室で話している自分は、多分、パーソナリティも全然違ってた。鬱々とする気持ちも、英語で話すことを考えていると吹き飛んでくる。話す言語によって、脳内の電気信号が異なり、その影響があるのかも…。
他の言葉だと、また違う自分になるのかしらん。。

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